2017年11月30日

平成日本紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」




「旅は道連れ、世は情け」>(日本の諺;江戸いろはカルタ)





 平成日本紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」  .






九頭竜川河口に広がる三国港





荒々しくも見所一杯の越前海岸の国道305号を北上し、三国町に近付くに従って、どうやら穏かな平地が広がってきた。 

左手には、今までの自然景観とは異なって、海岸に沿って物凄い工場群が連なっていた。 
その終点に「九頭竜川」が万端の水をたたえて、すぐ其処の日本海へ注いでいる。 

三国の地柄は日本海に沿って臨海企業、工場群が林立し、湊は九頭竜川の河岸に沿って開けている港といってもよい・・!。 
これは往年の九頭竜川水運の特徴を今に残しているのかもしれない。


九頭竜川(くずりゅうがわ)は、福井県嶺北地方を流れる九頭竜川水系の本流で、越前福井と飛騨岐阜の国境にある油坂峠(717m)辺りを水源として、九頭竜ダムを経、大野盆地・勝山盆地を北西に進み、福井平野を潤しながら日野川と合流し北進、三国(現在の坂井市)で日本海に注いでいる。 


その九頭竜川は昔から河川物流、水上交通、水運の要として重要な地位を占めていた。

昔の人々が辿った陸路は、峠越えなど自然条件も過酷で難渋が多かった。 
そのため林産物や平地で採れた穀物など重い荷物の輸送には大変苦労する。 
そこで舟を利用した海、湖、川を利用する水上交通が発達した。

九頭竜川流域には、奈良時代は東大寺荘園、平安時代には興福寺兼春日社領荘園が多くあり、流域で産出された米や穀類などは、舟で九頭竜川から三国湊に集められた。
それから海路を敦賀まで廻送し、敦賀で陸揚げされた産物は駄馬に積み替えられて、陸路を琵琶湖の北岸にある海津、塩津まで運ばれ、次に琵琶湖水運を利用して大津まで廻送され、再び、荷揚げされて陸路を都や大阪へと運ばれたという。


九頭竜川は本流、支流とも昔から舟を利用した輸送が盛んに行われ、併せて良港や街道と交差する河川付近には市が立ち、人々が集まって発展してきたとする。 

特に嶺北七郡の諸物資は、舟で九頭竜川などを下り、日本海沿岸にある交通の要地、三国湊に集まったという。 
江戸近世の頃は、三国湊と越前国内の諸河川を往来する舟の利用度が高くなり、三国湊〜福井間を往来する舟は昼夜の別なく舟便があったとされている。



九頭竜川の名の由来や伝説
この川は有史以来氾濫を繰り返す大河で、当初は「崩れ川」とも呼ばれていたが、いつしか変じて九頭竜川と名づけられるようになったという説もある・・?。 

しかし、“九頭竜“とは本来、印度伝来の仏法から生じたもので八大竜王(原型はインドの河の神様。後に仏教に取り込まれ、護法尊となり、その数が増えて八になった)の一仏神とされる。
昔から水の神、雨乞いの神様として各地に祀られている。 
或いは、水を治める為に命名されたものであろう。 

他に、平安中期、平泉寺の白山権現が衆徒の前に現れ、その尊仏像を川に浮かばせたところ一身九頭の竜が現れ、尊像を抱いて流れに下り黒竜大名神社の対岸に着いたという。
それ以降、この川を九頭竜の川と名付けられたとする。

その九頭竜は仏教と神道を守る神仏習合の神となり、水の神、雨乞いをつかさどる神として信仰を集めた。 
そして、九頭竜川の源流域から中流域の東部にかけては、「加賀白山」の大山域が横たわり、この山麓一帯は日本の三大山岳霊地とされた加賀白山信仰が盛んな地でもあった。 

その中心が勝山市の「平泉寺・白山神社」である。


次回は、「平泉寺・白山神社」 
posted by tobiori at 22:09| Comment(0) | 京都、福井県 | 更新情報をチェックする