2018年01月28日

平成日本紀行(215) 輪島 「能登・御陣乗」

.「長生きするものは多くを知る。 旅をしたものはそれ以上を知る」 
<アラブの諺>  





 平成日本紀行(215) 輪島 「能登・御陣乗」  .






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能登の奇祭・御陣乗太鼓





南北朝時代に足利尊氏に従い、室町幕府創立時の功績によって能登、越中を領する守護大名に列せられるのが「畠山氏」であった。 
かの、鎌倉幕府創立時、頼朝の重臣として大活躍する「畠山重忠」を祖にもつ名門であり、室町時代には斯波氏や細川氏とともに三管領家(将軍を補佐して幕政を統轄した官位)として名を連ねていた。


天正5年(1577年)の戦国期、能登・畠山氏は上杉謙信によって滅ぼされる。 
この時、上杉軍が畠山残党退治に遠征してきたとき、名舟(輪島市名船町)の地で村人達が鬼面や海草を顔に付け陣太鼓を鳴らして驚かせ、追い払ったといわれる。 

これは伝説の域をでないが、この事が有名な「御陣乗太鼓」の発祥、起源とされている。 
御神乗太鼓は、名舟大祭といわれ、白山神社の祭礼で披露され、御輿の渡御・還御の先導として露払いを務める役割を担うという。


天正5年、越後の上杉謙信は能登・七尾城を攻略して、

『 霜は軍営に満ちて  秋気清し 
越山を併せたり  能州の景
 』

と詠じ、その余勢をかって奥能登平定に駒を進めた。


現在の珠洲市三崎町に上陸した上杉勢は、各地を平定し天正5年、破竹の勢いで名舟村へ押し寄せてきた。  
武器らしいものがない村の人達は、鍬や鎌で打ち向かったが散々な負け戦であった。 

そのような時、村の古老の指図に従い、急場の一策として樹の皮をもって仮面を作り、海草を頭髪とし、太鼓を打ちならしつつ上杉勢に逆襲をかけた、この奇襲作戦が功を奏し、戦いを勝利に導いたという。 
面をつけ、太鼓を打つことによって、「御陣乗っ取り」を果たしたのである。

この戦勝は舳倉島(へぐらじま)の奥津姫神社(白山神社)の御神威によるものとし、毎年、神社の大祭(名舟大祭・7月31日夜から8月1日)には仮面を被り、太鼓を打ち鳴らしながら、御輿渡御の先駆をつとめ、氏神への感謝を捧げる習わしとなって現在に至っているという。 
以来名舟の村人たちは、戦勝の感謝を氏神に捧げるために、この御陣乗太鼓を叩くようになり、400年以上にわたって今に伝えられる。


始めはゆっくり、次にやや早く、最後はもっと早く、即ち序・破・急の三段で打ち切り、各自が自由な形で見えを切り、面に応じ、個性を生かした芸を入れるのが御陣乗太鼓の見どころであり、聞きどころであるという。 
又、御陣乗太鼓の踊り手は、地元に生まれたものにしか資格がなく、地元の子供たちは週2回、大人は毎晩太鼓の練習をし、一般に御神乗太鼓は男性が打つものとされ、女性の演奏は単に太鼓演奏として区別しているという。 

尚、ゴールデンウイークの4月29日(土)から「道の駅・輪島 ふらっと訪夢」でも夜に実演されるといい、御陣乗太鼓は今や、すっかりテレビでもお馴染みでになっている。


次回も更に輪島で、「輪島塗
posted by tobiori at 23:12| Comment(0) | 石川、富山県 | 更新情報をチェックする