2017年12月09日

平成日本紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」(3)


「漂泊の旅から、学問が生まれる」  






 平成日本紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」(3)  .






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写真:現在の白山神社本殿




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平泉寺(賢聖院)の名勝・庭園(地面は全て苔に覆われている)





16世紀の戦国期、当時の寺社勢力は農民層をはじめとして多数の信者を抱えるだけでなく、有力大名と結び、さらには僧兵集団を形成し、各地で勃発する一揆の後ろ楯となって武器の供給や軍事指揮者の派遣を行うなど、自衛力を超えた軍事力が組織的に展開されていた。 

平泉寺、延暦寺もそれらの一つであり、特に比叡山は仏教信仰の「聖地」とされていたが堂塔も坊舎も荒れ果て、修行もせずに肉を喰らい、女を抱くなどその山門僧侶の腐敗堕落ぶりは明らかであった。 

それでも比叡山そのものは多くの人々にとっては神聖不可侵の地として崇められていたのである。 
それと同時に山全体が要害でもあり、八百年来の俗権不可侵の特権を持つ数百の坊舎は、宗徒が籠もれば数万の軍勢の寄宿に耐えうる力を持っていたといわれる。

このような時期、戦国大名として台頭してきた「織田信長」は天下統一(天下布武)を目指していた。


その頃の延暦寺は、信長と対立している室町暗君将軍・足利義昭の側に付き、宿敵、浅井・朝倉連合軍を匿うなど、反信長の姿勢、行動を起こしていた。

元亀2年(1571年)、延暦寺の武力が天下布武の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう数度にわたって通達した。 
しかし、これらは全て悉く拒否されたのを受けて、信長は、敵対・比叡山を打つべしの意志を固めた。 

同年9月12日、織田勢は素早く比叡山相手に戦線を引き、全ての出入口を封鎖した。 
三万の軍勢で山麓を囲み、退路を完全に遮断したのである。 

ここに至って、佐久間信盛や武井夕庵ら仏教徒である臣下の諫止などは一切受け付けず、黄金を贈って信長の怒りを鎮めようとした山門の申し出も全て一蹴した。 

信長は、宗徒を根絶やしにする姿勢は決して崩さなかったのである。


合図とともに鬨の声をあげながら、織田勢は攻めかかった。 
見つけられた者は僧俗、老若男女構わず無差別に殺され、山頂においても徹底的な破壊と殺戮が行われ、根本中堂をはじめ4〜5百あったとされる堂塔・坊舎の全てに火がかけられた。 

殺された者は3、4千人(諸書によって違いがある)にも上り、比叡山は累々たる死体で埋め尽くされたという。 
この放火と殺戮と奪略は9月15日までの4日間続けられた。 初志の目的を忘れ、時政(じせい・時の政治、軍事)に介入した悪僧坊に天罰が下ったのである・・!。


この時期、白山平泉寺は最盛期を迎えていて寺領9万石、48社36堂6千坊、それに僧兵8千人と称するまでになっていた。 
しかし、叡山消失や信長と朝倉義景の決戦に巻き込まれて苦境に立ち、更に、一向一揆と対決し、最後は一揆の群集に攻められて平泉寺全山が焼き払われたという。  

幸い後の権力者・豊臣秀吉が当寺を保護し、禁制を与えたので寺運は順調に開かれ、元の僧坊らによって白山平泉寺が再興され、江戸期には福井藩、勝山藩の庇護のもと順調にその地位を守った。



時代は下り、明治維新に至って、神仏分離政策により神仏混淆(こんこう)を禁ぜられた平泉寺は寺院、仏像、僧徒を排し、権現の称を廃し、元の「神の宮」に戻った。 

白山神社は、祭神を革めて菊理媛神(ククリヒメノカミ:イザナギ、イザナミの仲裁の神)、伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冊尊(イザナミ)の三座とした。 

今、勝山盆地の山懐には、僅かな社殿を残して鎮まっている。 白山神社からみれば、中世の物情は夢のようであろう・・!。 



平泉寺の現在の拝殿は、元の大拝殿には及ぶべきもないが、千年前の石畳参道や当時の礎石などが今でも残り、絨毯を敷きつめたような青苔の美しさと共に、美しい自然の姿を見ることが出来る。 

又、賢聖院の庭園は、室町末期の細川高国の作庭で、鮮緑の苔に囲まれ、曲水庭園の様式が取り入れられた名園であるという。 
現在、文部省指定名勝にされていて、住職・平泉家(賢聖院の元別当が平泉家として引継ぐ)の承諾を得て見ることができるという。


次回は「芦原
posted by tobiori at 23:09| Comment(0) | 京都、福井県 | 更新情報をチェックする