2012年08月03日

新・日本紀行(111)いわき 「いわき平」

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 新・日本紀行(111)いわき 「いわき平」 



「いわき・平」について・・、


いわき市」は当時は、ひらがなの地域名として珍しがられた。 

昨今、多くの市町村が合併する際、さまざまな思惑から「ひらがな名」とした例が多いが、本市はその魁(さきがけ)といえる。 
そして、2003年4月までは日本一の面積を誇っていた。 

昭和40年の初め磐城地方の中心都市の平市(平・四倉地区))、炭鉱と歴史の内郷市(内郷・白水地区)、温泉と炭鉱の常磐市(湯本・湯長谷地区))、港湾都市の磐城市(小名浜・泉地区)、海浜と歴史の勿来市(勿来・植田地区)、と周辺五市が大合併して現在の「いわき市」が誕生している。 そして、市域面積も日本一になっていた。

しかし、2003年4月、静岡市と清水市の合併で、最大面積を持つ市の座を明け渡すこととなり、現在は、岐阜県高山市が日本一面積の大きな市となっている。
ちなみに本年(2006年)では、地域面積は第13位になっているようだが、最近の平成の大合併で、今後多いに変動する可能性はある。


2006年4月現在の市町村面積(km2)

1  岐阜県 高山市  2,177.67
2  静岡県 浜松市  1,511.17
3  栃木県 日光市  1,449.87
4  北海道 北見市  1,427.56
5 北海道足寄郡 足寄町 1,408.09
・・・
13  福島県 いわき市  1,231.34


「いわき市」は、福島県浜通りの南東に位置し、東は太平洋に面し、西は阿武隈高地に面し7割が山間部で、残る3割に居住区が分散する。 
東北地方としては珍しく、涼夏暖冬地域で、比較的寒暖の差も少なく、山間部を除いてめったに雪は降らない。 
又、地盤が硬いために大きな地震が起き難いと云われるようである。

この、いわきの中心、浜通り地区の最大都市が「平地区」である。 
行政、商勢圏とも今、再開発の発展途上にあるようで、駅前辺りの景観がガラリと変わるらしい。 
駅名は、近年の平成6年(1994年)、常磐線・平駅から市民の要望により「いわき駅」に改名している。

常磐線・平駅は、小生が学生の頃の昭和30年代前半頃までは、まだ、SL・蒸気機関車であった。 黒煙を吐きながら、力強く前進する蒸気機関車の列車が懐かしい。

学生当時、平〜湯本間を通学(県立磐城高校)していた頃はまだS・Lで、発車してもユックリ発進したもんで、時折、改札を通らないで駅舎の端から線路沿いに追いかけて行ってデッキに飛び乗ったものであった。
3学年頃になって、気動車(ジーゼルカー)になり、発車速度も速く、自動ドアーになったため、その楽しみも出来なくなったが、後の昭和30年後半には平駅まで電化された。 
その時も、電車の始動の速さに驚いたものであった。
因みに、当時のSLで平⇒上野は7時間前後かかっていたが、現在では2時間少々のようである。



「いわき」の歴史概要について・・、

先にも記載したが・・、いわき地方は元は石城、石城郡と称し、小生幼少の頃は「福島県石城郡・・」であった。

石城地方は歴史的には古く、奈良時代までに遡るといわれる。 
当時は常陸国(ひたちのくに)属し石城郡(いわきのこおり)と称し、大化の改新後、陸奥国・略して「みちのく」に編入され、同時に「磐城」に改名している。(明治になって周辺合併で、再び「石城郡」となる) 


平安後期には、岩城氏が石城地方に勢力を得て、中心を「岩城の平」とした。 

岩城氏は常陸・平氏 (ひたちへいし:武士の発生の大元と言われる常陸の平将門の同系)の血を汲む名族であり、その子孫が奥州に土着したことが岩城氏の始まりと言われ、その祖先の名を戴いて『』としたらしい。  
岩城氏は、平安期の奥州藤原氏(清原氏)との関係も深く、石城一帯の領国支配に成功する。

戦国期は、小田原城攻めで豊臣秀吉に謁見し領土は安堵されるが、関ヶ原の戦いで石田三成に加担、徳川家康に降伏して磐城12万石は除封され、お家は断絶となる。
尚、当時の岩城貞隆は、後に家康の重心(土井氏、本田氏)の助言や大阪夏の陣の功により、信濃・川中島藩1万石の創設を許され大名に復帰している。

又、その息子である岩城吉隆は出羽秋田・亀田藩に封され藩主となっている。(亀田藩の創立;現在の秋田・岩城)
更に、子供のなかった伯父・佐竹義宣(常陸の国より転封・初代秋田藩主)の養子に迎えられて秋田藩52万石の第二代藩主「佐竹義隆」となっている。


江戸期においては鳥居氏、内藤氏、井上氏、安藤氏の歴代藩主が其々入封している。

鳥居氏は、あの有名な関ヶ原の戦いの前哨戦といわれる「伏見城攻防」での功により、直接家康より賜っていて、この時期に「磐城平城」が築城されている。 

磐城平城は、「いわき駅」裏手の城山地区にあった城で、今は住宅地となり昔の面影は城址が僅かに残るのみである。 
当時の姿は「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われ、この城の主目的は仙台藩・伊達氏の押さえにあったとされる。 
平の街並も純然たる城下町で、今も鍛冶町、紺屋町、材木町といった往時の職人街と思しき懐かしい地名が今も各所に残っている。


「内藤氏」について・・、

鳥居家が山形に転封後、磐城に来たのが「内藤氏」であった。
これにて磐城平藩は7万石となり、内藤家は永く江戸初期から125年間、六代の永きに亘って治めていた。 

六代目・内藤 政樹の代の磐城平藩では、天変による洪水や凶作、また悪政などにより藩財政の破綻が続き、そのため重税で苦しめられ、領民の不満が鬱積していた。

そして、ついに元文3年(1738年)に「元文百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生する。 
その責任をとって内藤政樹は日向(宮崎県) 延岡城7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる。

去るに及んで・・、

『 日に向ふ(日向) 国に命を 延べおかば(延岡) 
           またみちのくの(磐城) 人に逢うべし
 』 

と詠んでいる。


江戸期最後の大名は「安藤氏」で入封後、藩校・「施政堂」を八幡小路に創設し藩士の子弟を教育を行うなど善政を施している。 
特に、歴代藩主の中で最も有名なのは、第五代藩主・「安藤信正」であった。 

幕末の桜田門外の変の後、老中として幕政を主導したが、文久2年(1862年)の「坂下門の変」(江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6名が老中安藤信正を襲撃した事件で、この結果、安藤は負傷し、老中を罷免された)で失脚した。 
現在は「松ヶ岡公園」に銅像が残る。

その後の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟として西軍と決戦、鳥居氏築城から260余年を経て、いわき平城は落城している。


昭和41年、5市(平市、内郷市、常磐市、磐城市、勿来市)、4町(四ツ倉町、小川町、遠野町、久ノ浜町)、 5村(箕輪村、赤井村、三和村、好間村、大久村)が大同合併し、現在の「いわき市」が発足している。


次回は、「草野心平




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posted by tobiori at 09:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 宮城、福島県 | 更新情報をチェックする