2017年02月23日

平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(1)





 平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(1)   、





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/47/Shokasonjuku.jpg/1024px-Shokasonjuku.jpg
吉田松陰の松下村塾




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/1/11/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%9D%91%E5%A1%BE2.jpg
松下村塾の講義室




旅の記録;「日本一周」へリンクします

罪人にして尚、虫のいいことに松蔭は更に「外遊就学願」を出している・・、

今度は西の町外れ、その名も「松蔭大橋」の松本川を越えたところに、木造瓦葺き平屋建ての50平方mほどの小舎「松下村塾」や国指定の史跡で木造瓦葺き平屋建ての「吉田松陰幽囚ノ旧宅」、又、吉田松陰を祭神とする神社の「松陰神社」(松蔭没後31年経て建立)等、吉田松陰所縁の史跡がある。 
神社に一所を現すためか、両建物とも“しめ縄”が飾ってある。 

生家屋敷はこの奥山裾、団子岩と呼ばれる風光明媚な所で、建物跡の敷石や松陰の産湯といわれる井戸が残っており、東の高台に松陰銅像が建っている。



ところで長州藩の志士達が明治維新の革命を起こすが、その志士達の一人一人を取り上げて詳しく述べると紙数が何枚あっても足らない。 
ここでは彼等の中で幕末、先見思想をもち維新の先駆者であった「吉田松陰」を中心に、松蔭と接触のあった人物などについて少し詳しく述べておこう。


吉田松陰」は、天保元年(1830)に萩藩士・杉家の二男としてこの地に生まれ、通称・寅次郎と呼ばれていた。 
山鹿流兵学師範として毛利家に仕えていた吉田家を、松蔭は6歳の時に養子縁組として継ぎ、19歳で一人前の兵学師範となった。 

その後、さらなる兵学修行のため、九州平戸、続いて江戸、東北地方への遊学の途につき、海外情報に関する見聞を広めた。 
特に、佐久間象山に師事し、西洋砲術と蘭学を学ぶにつれてその欲求はますます高まり、海外情勢を直接に知るため、海外密航を企てるが失敗する。


松蔭が兵学修行のため江戸に始めて遊学するのは、ペリーが艦隊を率いて浦賀に現れる2年前の事である。 この時に象山に師事している。 
松蔭の学問の主目的は、戦術や戦略であるが儒学や洋学をも学び、学問の本当の目的は「知識」ではなく「道」を得る事にある、と既に喝破している。 

松蔭の言葉に、「井戸は、深く掘るか浅く掘るかは問題でなく、水の量が問題なのである、学問は一生ささげるべき対象であるが、道を得られたかどうかが問題なり」、との思考が一貫していたのである。

遊学中の江戸にて、数人の友人を得るが、20歳そこそこの松蔭が一番若く、他は皆先輩達であり、会話の中でも大概は「聞き役」であったという。 
友人達が松蔭を評するに「いつも必要な事しか口にせず、一言発する時は必ず「温然和気、婦人好女の如し、是が松蔭の気迫の源なり」と。


江戸遊学の途、松蔭は21歳の時、東北見聞旅行をしている。
疲れを知らぬ若さで、厳冬の時期にもかかわらず短い間に驚くほどの距離を踏破している。 
水戸、会津、新発田、新潟、佐渡、秋田、弘前、青森、盛岡、平泉、仙台、米沢、日光などであり、松蔭は行く先々で地勢等を調べている。

最北の地・津軽を訪れた時、蝦夷・松前を望む海峡付近で、外国船が我が者顔に往来航行していた。 攘夷思想家の松蔭は、「何故こんなことが許されているのか・・!」、 又、 竜飛崎近くのアイヌの集落では、日本人商人が彼等を牛馬並みの扱いをしているのを見て、人間味豊かな松蔭は、「習慣や風俗が違っても同じ人間ではないのか・・」と、いずれも怒りを顕わにしている。

東北では関所を通るのに金が必要なのにも驚いていて、時折、理屈をこねて役人と喧嘩もしたが、米沢藩では入国者を調べはするが、金品は必要としなかったといい、「さすがに東北を代表する雄藩と称することはある」と感心している。

松陰の東北巡遊は、広く各地の志士と交わって国事を談じ、民情を視察し、殊に津軽半島に出没する外国船に対する防備の有様を見聞することに真剣であった。 
その旅は苦労の連続であったが、安らぎの一時もあり、特に津軽半島・十三潟(十三湖)の潟縁を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせたという。 

そして、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野が知恵や見識、勇気を与えてくれたことも察していたのである。
松蔭は、外国を含めた対外事情を見聞、経験するに従って、洞察力を見に付け「人は学識を広めてから旅をするというが一般的であるが、松蔭にしてみれば、旅をして学識を広める」とも思えたのであろう。 


この時期に松蔭は「脱藩」している。
脱藩しても尚、松蔭は故郷の萩・松本村の実家へ戻っている、22歳の頃であった。
「 藩主をはばからず、他国(他藩)人に信義を立てたこと、重ね重ね不届き至極也。 しかし、前非を悔いて江戸藩邸に戻り、共にした(東北旅行の同行者)肥後藩の宮部鼎蔵(みやべていぞう)の寛刑嘆願も出ている。 よって今回は特別の思し召しをもって・・、」、と藩による判決が出ている。 

判決が出て、尚、虫のいいことに松蔭は更に「遊学前願」を出しているのである。 「将来、今一度毛利公のお役に立てるため、来年から向こう10年間の他国修行をお許し願いたい」と願い出て、これが通るのである。 

毛利藩主・敬親は、松蔭には幼少の頃から眼をかけていた。 
温和のようでいて、自らを焼き尽す様な激しさをもつ松蔭という存在を最も理解し、愛した人物でもあったのだ。 
脱藩の罪に対する判決や遊学許可と前後して、彼は「松の木陰」を意味する新たな号・「松蔭」を使いはじめる。 
実際に「萩」の町には、現在もいたる所に松ノ木が繁り、風情を保っているのである。

今までは吉田寅次郎であり、ここからが本当の「吉田松陰」が誕生するのである。


次回も、引き続き「吉田松陰

  
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posted by tobiori at 21:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 広島、山口県 | 更新情報をチェックする
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