2019年06月08日

美しい日本を巡る(102)気仙沼 「名物・ふかひれ」 



 美しい日本を巡る(102)気仙沼 「名物・ふかひれ」 


白砂と松の緑で目の保養しながら、更に国道45を南下する。 
広田湾を見ながら、宮城県に入ったようである。 

三陸名物のリアス海岸を味わえる場所としては唐桑半島もその一つであろう。 半島の何れからも、断崖絶壁が広がり、眼下には大小の鋭い奇岩・怪岩が連なる。 
半島の東側にある二つの岬、シンボルは巨大な石柱で「折石」という、高さ16m、幅3mの大理石の石柱で、荒波の海にヌッとそそり立っている。 
なんでも「折れ」と頭につくのは三陸大津波で先端が折れたかららしい。 
風光明媚な海岸線が続く唐桑半島であるが、その地形から過去に大きな津波の被害を受けてきた地域でもある。 



G・S(ガソリンスタンド)に寄り、昼時(ひるどき)なので「何処っか、美味いラーメン屋はないかね」、「すぐ其処に有りますよ」・・と小生の車のプレートNoを見ながら「気仙沼はフカヒレラーメンですよ・・!」と、ニコニコしながら云う。 

言われるままに紅いノレンをくぐって早速食してみた。
ヌルッとした食感はサッパリ味で良い、汁も実にいい味を出していた。


フカヒレといえば、漁業で栄えた港町・気仙沼が本場であった。
ふかひれはサメのヒレを晒して干した白色か淡黄色の半透明状の食品のことで、高級中華料理の材料として知られてる。 
フカヒレスープやフカヒレ姿煮として加工され、ふかひれラーメンやふかひれ寿しは気仙沼の味として全国的にも有名である。栄養価としてもコンドロイチンやコラーゲンが多量に含み、不老長寿、百薬の源と健康食としても優等生と言われる。


気仙沼は全国でも珍しい「魚食健康都市宣言」をしている都市だとか・・!。
水産業は東北でもトップクラス、全国有数の水揚げ高を誇るのは周知のことであり、食卓にお馴染みのマグロ、カツオ、サンマなどをはじめ、特に、エビ、カジキ、シイラ、そしてサメは陸揚量全国1位を誇るという(平成16年度)。


このサメだが・・、

多くはマグロの延縄漁の際に釣れるのが「サメ」だという。
そして鱶鰭(ふかひれ)は、大型のサメのひれ(主に尾びれや背びれ部分)を乾燥させた食材である。
日本は元々、世界有数のふかひれ生産国であり国内では、ここ気仙沼の水揚げが最も多いのである。
フカヒレはジンベエザメ、ウバザメのものが最も高級とされ、アオザメ、イタチザメなどのものも高級であるが、一般的にはヨシキリザメのものが使用されることが多いという。
日本の気仙沼産が特に有名で且つ高級品として扱われるのは、加工技術(乾燥など)が優れているためとも言われる。


気仙沼は県の北東端に位置していて、こちらも代表的なリアス海岸を形造っている。

このノコギリの歯のようなリアス海岸一つでもある気仙沼市街地の正面に、半島の如く南へ突き出しているのが実は「大島」という島であった。
本土とは大島瀬戸によって隔てられ、最も狭い場所で230mしか離れていないという。 
鳴き砂海岸」などでも有名だが、自然が豊かな島であり、地元作家の水上不二氏(詩人、童話作家、絵本作家、作詞家・気仙沼市に生まれ育つ)によって「大島よ永遠にみどりの真珠であれ」と称えられた。 
気仙沼港は、元より気仙沼湾の深く入り組んだ処に在り、更に、湾口部には「大島」があることで湾内は常に穏やかであり、「気仙沼の防波堤」の役割を果たしている。 よって気仙沼漁港は天然の良港なのである。


国道45は別名「東浜海道」ともいう、並行して気仙沼線が海岸を行く。
元吉町の大谷海岸から小泉海岸は明るい景観が続く、特に小泉海岸は砂浜の美しいところである。「白砂青松100選」にも選ばれ、若者がサーフィンに興じていた。


歌津町は緑の濃い街で小さな町域である。

伊達藩政以前は、歌津をはじめ三陸一帯の海岸には一本の黒松もなく、見渡す限り荒涼たる浜で怒涛が岩をかみ、飛沫は遠く飛散して内陸に及び、作物は塩害に晒されたという。 
この状態を見て「伊達政宗」が殖産のため防潮林の育成策を打ち出し、それから三百余年の今日まで、種子が次々と飛散して三陸沿岸一体が黒松林で覆われるようになったと伝えられている。
三陸界隈の松林は、自然林ではなく人工林だったのである。 

南下の途中、緑濃き三陸地域に感心していたが、古人の英知に改めて敬服し、敬意を表したい。
志津川町・歌津町は合併協議が順調に進み、来年度「南三陸町」として新たに発足することが決まっている。


次回は、「女川、牡鹿半島



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美しい日本を巡る(101)陸前高田 「松原と啄木」 




 美しい日本を巡る(101)陸前高田 「松原と啄木」 






陸前高田・「高田松原」(震災前の・・・、) 




石川啄木の「一握の砂」・・、

国道.45にはリアス海岸の小さな半島を越えるたびに、いくつもの大小の峠を越えるようになる。
大船渡の細長い町並みを抜けると広田半島(末崎半島)・・?の付け根に当たる山地を行くようになる。 
この通岡峠は、その中でも比較的大きめの峠であろう。 標高はわずかに170mであるが海から一気に登るので、そのわりに道は急坂で険しい。
峠からは遠くに海を臨むことができ、すぐ南に神奈川県民としては懐かしい「箱根山」というのが聳えていて、三陸を代表するような松の緑も秀麗で目を潤す。


この通岡峠を境に「陸前高田」に入る。
峠直下では「三陸自動車道」のトンネルが掘削中のようでもある。 
国道45のドライブで、そろそろ一息入れたいと思っていた時に「道の駅・高田松原」が現れた。 
ゆっくり休憩しながら案内板を見ると、このすぐ裏手に名勝「高田松原」があった。 
小雨模様の薄暗い様気も今はすっかり晴上がっているし、上機嫌で脚を延ばしてみた。



三陸の海岸は、リアス海岸で断崖絶壁ばかりかと思われているが、実は平坦美景な砂浜も多少はある。 
中でも有名なのが、ここ「高田松原」であろう。
こちらも三陸を代表する景勝地で、約2km続く弓形の砂浜は、背後には樹齢300年を超える数万本の赤松や黒松が続いている。 日本百景にも数えられる白砂青松の浜はさすがであった。 
「高田松原」は、往時の江戸初期の頃は、ただの砂浜や湿地帯であったらしい。 気仙川から運ばれた土砂が、広田湾の沿岸流によって堆積され、これが高潮の時や風によって「飛び砂」となり、地域の人々は難渋していたという。 
だがその後、この荒涼とした高田の浜は、人為的に改良されたのであった。


高田松原は江戸初期(1667年)菅野杢之助(かんのもくのすけ)翁が仙台藩の許しを得、地元民の力をかりて「松」を植栽したのが始まりで、三代にわたり植えられ保護されてきたという。 
更に、享保年間(1716〜1736)には、松坂新右衛門翁が植栽を続け、ここに、現在にいたる松原の原型が誕生したとされる。 
しかし、昭和35年のチリ地震津波では、200メートルにわたって砂浜が流失してしまったというが・・!。
高田松原は、自然にできたものではなく、数百年の永年にわたり、人の手により作られ保護されてきたものであった。


地元・盛岡出身の歌人・「石川啄木」は折に触れてこの地を訪れ、高田松原や広田半島などの自然に浸り、時を忘れ、その美しい風景に感動して多くの歌や句に詠んでいる。

砂浜を漫ろ(そぞろ)歩きしながら、啄木の歌を思い出した。

 「東海の 小島の磯の 白砂に 
         われ泣きぬれて 蟹にハサマル
」と、駄洒落る。



石川啄木は「一握の砂」の詩集の冒頭に・・、

『函館なる郁雨・宮崎大四郎君(啄木に対し変わらぬ敬慕の情を抱き、物資両面にわたって援助を惜しまなかった歌人・宮崎大四郎:郁雨・いくう)。 同国の友、文学士花明・金田一京助君(アイヌに造詣のある言語学者)に、この集を両君に捧ぐ。 予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。 従つて両君はここに歌はれたる歌の一、一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。 明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む。・・「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の紀念なり・・』とある。 


表題の『一握の砂』の内、砂に纏わる歌集を集めてみた。

『我を愛する歌』 より・・

 『 東海の 小島の磯の 白砂に 
          われ泣きぬれて 蟹とたはむる 』 

 『 砂山の 砂に腹這ひ 初恋の 
          いたみを遠く おもひ出づる日 』

  『 大という 字を百あまり 砂に書き 
          死ぬことをやめて 帰り来れり 』

  『 頬につたふ なみだのごはず 一握の 
             砂を示しし 人を忘れず三行書き」に改め、新作を加えて551首の『一握の砂』という題で明治43年に刊行している。 
望郷と漂泊の天才詩人として知られる石川啄木は、僅か26年の生涯ながら「歌は私の悲しい玩具である」、 「歌を作るのは不幸な日だ」と告白しながら、「一生に二度とは帰って来ない命の時の一秒」をいとおしみ、消え去る刹那の感動を見事に表現しているという。 

啄木は、岩手県玉山村(盛岡市北東の村、2006年:平成18年1月10日に、盛岡市に編入合併されて消滅した。)生まれ、1902年、盛岡中学を自主退学して上京し与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねている。
病気で帰郷の後、 故郷での代用教員、北海道での新聞記者生活のなどを経て、1910年「一握の砂」を発表、出版している。
1912年肺結核のため東京で26歳の若さで永眠する。 第二歌集「悲しき玩具」は死後出版されたものという。

ただ、石川啄木が、この地「高田松原」の砂浜に、腹這いしたかどうかは、定かでない。


陸前高田市街地の北部、大船渡線で一駅の地区に「竹駒」という地区がある。 あの演歌歌手「千昌夫」の出身地である。
彼は高校2年のとき、修学旅行で上京した際、作曲家・遠藤実氏の門をたたき、「北国の春」を歌ったのは周知である。 
北国の春は1977年発売、最終的に 300 万枚を売上げたという超ヒット曲で、今では日本以外のアジア各国でも大ヒットし、中国では、現在でも最も有名な日本の楽曲の一つとされている。

寒い北風の中、氷点下の冬を過ごす北国に住む人にとって春の到来を告げる南風は待ち遠しい。 
「北国の春」は、千昌夫の故郷、出身地である陸前高田の竹駒地区を連想させるが、実際は、この歌を作詞した「いで・はく」は信州・南牧村の出身で、故郷の野辺山周辺をイメージして作詞したといわれる。

余計だが、カラオケ好きの小生にとって「北国の春」は、良く唄う歌ではあるが、それ以前にヒットした「星影のワルツ」が強烈に印象に残っている歌なのである。
私事ながら、東京へ転勤になって一人寂しい暮らしが始まった時でもあり、その孤独感を癒してくれた或る女性とのつかの間の「愛」を育んできたが、とある事情で露と消えてしまった時期でもあった。 
この時に大ヒットしていたのが「星影のワルツ」であり、巷では厭でもこの曲が流れていて耳に入る。 
まるで悲壮感漂う小生の心境を謳いあげているような錯覚さえしたもんであり、この曲だけは歌好きの小生でも、今も歌うことが出来ないのである。


星影のワルツ』 曲:遠藤実(昭和43年)

別れることは つらいけど
仕方がないんだ 君のため
別れに星影の ワルツをうたおう
冷たい心じゃ ないんだよ
冷たい心じゃ ないんだよ
今でも好きだ 死ぬ程に





【追記】 .

平成23年(2011年)3月11日、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、この地震が引き起こした大津波によって市中心部は市庁舎もろとも壊滅し、市の全世帯中の7割以上が被害を受けた。 その年の6月30日 :この時点で判明していた陸前高田市における死者は1,656人、行方不明者は95人である。
改めて、お見舞い申し上げます。



以前の高田松原


残された希望の一本松




次回は、「気仙沼



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